毎年恒例の公共一般歴史に学ぶ夏の旅。
今年は1月1日に地震にみまわれた能登へ能登大震災支援 内灘闘争に学ぶ旅」と題して8月3日~4日の日程で行われました。
参加した組合員Kさんの感想報告をご紹介します。
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能登の復興の遅れが気になっていたので、今回、現地の今の状態を知りたいと思い参加しました。8月3日~4日の1泊の旅で、1日目は内灘闘争の現地闘争史跡フィールドワーク。その闘争のことは知らなかったので、学ぶとても良い機会になりました。
内灘闘争の史跡も被災
広い砂丘の中にポツンと発射台があり、今回の地震で半分くらい埋まってしまったとのことでした。米軍試射場、射撃指揮所の立て看板があり、詳しい説明文がありました。
1953(昭和28)年内灘砂丘(石川県河北郡)は、米軍が日本の工場に発注した砲弾の試射場として接収され、この「射撃指揮所」を含めて周辺には兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられ、当時村民の生活を支えてきた地引網の漁場が奪われ、反対運動に立ち上がったことなど詳しく書いてありました。
米軍基地反対闘争のさきがけ
その後に見学した歴史民俗資料館では、村民たちが反対運動で使った「金は一年土地は万年」のムシロ旗や、砲弾を運ぶために砂丘の路上に敷き詰めた、穴の開いた鉄板なども展示されていました。
また元内灘町教育長の西尾雄次さんから、当時の内灘闘争が米軍基地反対闘争のさきがけとなったことや、現在も依然と存在する米軍の本音の話を聞いて、沖縄の辺野古新基地反対闘争の今を思いました。
震災の経験は活かされているのか
液状化被災地視察では、7カ月以上経過しているとは思えない惨状のままが多く、砂丘の液状化で車庫の車が半分埋まっている、家や電柱がかなり傾いている、ブルーシートがされたままのところや生活道路が地震で使えないままで困っているなど、話を聞いて愕然としました。これから復興に何年もかかるという。これまでの震災の経験を国が活かしても、どうしてこんな状態なのか疑問ばかりが残りました。
歌の力で
2日目は被災者の辛い気持ちを少しでも和ませようと、ミニうたごえ企画で参加者に歌集を配布し、リクエストを聞き、演歌、フォーク、アニメなど一緒に歌うコーナーでした。ギター1本で会場を盛り上げ、歌の力は心を一つにすると改めて考えさせられ、支援のやり方もいろいろあることを学ぶいい機会にもなりました。
(2024年9月24日付機関紙より)